明治時代)開設2年目にして閉鎖の危機を迎える日本領事館
領事館ですが、開設後わずか2年目にして存続すべきかどうかの危機を迎えていました。
この本「明治時期 香港的日本人(明治初期における香港日本人)(※1)」によると「適当な人がいない」というのが大きな理由だったようです。
初代の林副領事は、就任後わずか3ヶ月で帰国申請を提出。理由は当時日本で起こっていた外交問題「鮑彦卿事件(※2)」の処理で帰る必要があったようですが、1873年9月19日に横浜へ到着するも同月23日に突然、病気で亡くなっています。
その後、明治政府は次に樋野書記官を派遣、しかし彼は元々3ヶ月の短期の約束だったのと、病気になってしまったのとで「早く日本に帰りたい」と訴えます。政府側は「まぁまぁ」となだめてごまかしていたけれども樋野氏の病状は悪化。とはいえ、次の人がいません。そこで樋野氏は「外国人に領事館の仕事を依頼するで!(※3)」と今では考えられない案を出します。さすがに外務省は「えぇぇ、あかんやろ~」と拒否しますが、最終的には受け入れています。
樋野氏は領事館の閉鎖を提案しつつ、オフィス(兼官舎)の賃貸契約が切れたため、こまめに1ヶ月ごとの更新を繰り返します。その際に120元(※4)だった月の家賃を100元への値下げに成功。
ここの記録、とても心にしみました。現代においても香港で住む人間はみんな家賃に悩まされているんです。大家さん、優しいなぁ。今だったらどうなるかなぁ。
大家に「1ヶ月延長?ていうか、あんた何回ちょこちょこと延長してるねん。いい加減出て行って」とか「また1ヶ月延長はえぇけど、家賃あげるしな。もう2倍やわ、2倍」とか言われる、絶対言われる。それを値下げしてくれるなんて。。
樋野氏の外務省へのレポートの中にも
「今月で賃貸契約が終わります。(領事館を)廃止するかどうか今年、報告書を出しましたけど、まだお返事いただけてませんね。もし別の場所に引っ越すにしてもなんやかんやでかなり費用がかかります。もし前(今?)のように良い部屋を探したいなら、しばらく事務処理をする場所がなくなります。もう一つ言っておくと、家賃はめっちゃ高い(1ヶ月110元もする!)し、適当な物件が見つかるまでは引っ越しできません(今の所、満足できる物件はないんですけどね)」
とあり、現代の私たちと変わらない苦悩が見えます。
レポートには家賃が110元ってありますけど、最終的に100元まで下げているということは、延長のたびに樋野氏は値段交渉したのかなぁと勝手に親近感を覚えます。
最終的には外務省の判断で、領事館は必要とされ、オフィスを引っ越しています。当時、台湾で起こった事件で香港領事館の重要性が増します。
(台湾の話はまた後で)
※1: 日本語の正式名称を教えていただきました。
※2: 「鮑彦卿事件」をネット調べるも、日本語資料が全く出て来ない!
この本の説明によると、1872年に嵐のために日本沖で一艘の舟が難破、日本の横浜で修理をすることに。その船内に閉じ込められていた中国人労働者1名が入水自殺を図り、在日イギリス軍に助けられ、230名以上の労働者が閉じ込められていることが発覚。それを巡って清朝、イギリス、アメリカが絡み外交問題へ発展し、日本は処理に追われたそうです。ちなみに鮑彦卿は中国人の名前らしいのですが、どうかかわったのか良くわかりません。
※3: 当時の政府は優秀な外国人を積極的に雇用していたので、今ほどギョッとすることではなかったのかもしれませんが、外務省が初めは拒否しているところを見ると、当時としてもぶっ飛んだ提案だったんじゃないかと思います。
※4: 前回「円」と記載しましたが本を読み進めていくと「円」ではなさそうなので、「元」で統一します。
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