香港、小さな場所だと思いきや。

香港の過去や現在を、斜め上の視点で観察。

琉球人フィリピン漂流記。香港の日本領事館で語られる物語

明治9年(1876年)8月6日、香港にあるスペイン領事が日本領事館を訪れました。何の用事かと思いましたら「うち(スペイン)の植民地のフィリピンに日本人3人が漂流してきたから保護しててん。お渡しするな。」とわざわざ3人を連れてきてくれたのです。安藤副領事は「いや~、ほんまありがとう!」とお礼を言い、早速その3人に会いました。

 

助けられた3人は琉球人。困ったことに琉球語がわからない安藤さん、全く会話が成り立ちません。「え~、話できへんやん。どうしよう。。」と困っていた時に、鹿児島県出身の宮田五郎左衛門忰甚助さん(以下:忰甚助さん)(※1)という人が通訳ができると聞きつけ、早速きてもらいました。忰甚助さんは船乗り(水夫)で8月8日にカルカッタ(インド・コルカタ)から香港に到着したところでした。明治の初めに世界中を船で渡り歩いていた人がいるんですねぇ。

 

         f:id:kaori_neko:20190302172215j:plain

 

忰甚助さんの通訳によると、まずこの3人は、1人は那覇市士族の神山氏大和さん、もう1人は川平村からきた平民の牛屋さん、そして最後は同じく川平村の真茶さんと判明。砂糖ビジネスをしている人たちで明治8年12月29日(旧暦)に飯島を出発しました。小舟には初め、この3人以外に船乗りの島木葉さんもいて、計4人で那覇へ向かっていました。

 

ところが途中で暴風雨に遭い、2日間も嵐に揉まれます。嵐はゆっくりと収まってきたものの、完全に方角を見失い、帆もボロボロになってしまった船は海流に乗り流されていきました。海を漂流すること数日、食べ物も水も底をつき、それから7日間全く飲まず食わずの4人は自分の尿を飲んで乾きを凌ぐほど追い詰められ瀕死状態となります。そして船乗り島木さんはとうとう餓死してしまいます。。

 

もうあかん。。。

追い詰められ諦め掛けていた3人は明治9年1月14日夕方5時、幸運にも陸地を見つけます。「助かった!!」と大喜び、上陸を果たしますが、そのうちの1人は浮腫みがひどくて動けない状態でした。「水はいるもんな。。」と動ける2人は水を探しに行くことを決め、早速出かけます。

 

テクテクと歩いていくと、向こうから背の高い、刀を持ち、牛を連れた男が現れました。この2人はこの時点では自分たちが流れ着いたのは台湾だと思っており、男の姿を見た瞬間、宮古島の遭難者が54名もの人が惨殺された「宮古島島民遭難事件」(http://kaori-neko.hatenablog.com/entry/2019/02/21/215411)が頭をよぎりました。

 

殺される!!

恐れおののいた2人は、その場にうずくまり手をすり合わせて「助けてください!なんでもします!助けてっ!」と命乞いをします。

 

〜続く〜

 

※1: 私は宮田五郎左衛門忰甚助は宮田五郎左衛門の忰(せがれ)の甚助さんかと思ったのですが「明治時期 香港的日本人」には「忰甚助さん」となっているので、そのままにしました。

 

 

 にほんブログ村 海外生活ブログ 香港情報へ
にほんブログ村

↑ご興味がありましたら、宜しくお願いします。