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琉球人フィリピン漂流記。香港の日本領事館で語られる物語(後編)

前回のお話 : 

嵐に巻き込まれた琉球人4人。1人が亡くなってしまうが、3人はなんとかフィリピンへ上陸。自分たちがたどり着いたのは台湾だと思い込んでた琉球人、上陸後に現地人を見つけるも、台湾で起きた「宮古島島民遭難事件」を思い出し、恐怖に震えます。

 

「助けてくださいっ!」とうずくまり命乞いをする2人。

牛を連れた男はどうやら2人の言わんとすることがわかっただけでなく、漂流民だと気付いたようでした。2人はこの男が危害を加えそうにないと判断し、自分たちが乗った小舟まで案内、その男に動けなくなった仲間を助け出してもらいました。

 

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なんとか助かった3人は次の日、小舟に乗せられ同じ島の違う村に連れて行かれました。村長の家で8日間ほどお世話になった後、違う島(琉球人の表現が理解できずに結局、場所は不明)に移動。役人の家で7日間でお世話になり、今度は海を8日間も移動し、3月28日にマニラへ到着しました。

 

ホテルのような部屋に泊まったらしいですが、最初は食事や寝るところも他のお客さんから見えるという環境だったようです。そののちに大きな家(スペイン領事の話によるとマニラ救済院)へ移動しました。

良い食事を分け与えられる等いろいろと面倒を見てもらっただけでなく、近所の人が「今は冬だし、服もいるだろう」と十分な衣服を分けてくれたそうです。

 

そしてその後、貨物船「エスメラルダ(愛斯梅拉達)号」に乗って香港に来たとのことです。

 

スペイン政府がこの3人を日本領事館へ連れてきた理由は「フィリピン語が通じなかったから日本人だろう」というものでした。とは言っても、日本領事館へ来ても言葉が通じなかったので、通訳の忰甚助さんがくるまでの数日間は、待つだけの日々だった3人でした。

 

この3人はこの後すぐに、忰甚助さんと一緒に上海経由で日本へ帰国しました。香港を出発後、8月15日に上海へ到着、次の日(16日)に三菱の汽船「玄海丸」に乗って長崎へ行き、そこから無事に帰国したそうです。おおよそ9ヶ月ぶりの故郷、本人はもちろん家族もとっても喜んだでしょうね。

 

余談ですが、当時、三菱汽船の「上海~長崎」間の一番安いランクの船代は10元でした。明治8年(1875年)4月2日に上海領事館の品川さんと三菱が協議して、難民(遭難した人とか)には30%オフの7元と設定しました。(素朴な疑問ですが、政府が出してくれるのか?それとも家族から取っちゃうの?)

 

 

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