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台湾での悲劇「宮古島島民遭難事件」と清朝の問題発言

「宮古島島民遭難事件」は明治4年(1871年)に起こりました。沖縄の人は知っていると思いますが、日本本土でこの事件って授業で習いましたっけ?覚えてないなぁ。。日本が国際的に目立つキッカケを作ったんじゃないかと思うほど重大な事件だと思います。

 

当時の背景を簡単に説明すると明治4年(1871年)は沖縄はまだ「琉球王国」で、翌年に「琉球藩」になります。台湾は清朝管轄でした。ちなみに香港領事館ができるのはこの2年後です。

 

「宮古島島民遭難事件」は、琉球王国に年貢を納めに行った宮古島の船がその帰り道に嵐にあって遭難、台湾へ流れ着いたところから始まります。

 

船に乗っていた69名のうち、3名は溺死、残り66名が山道をさまよっていると台湾原住民(排灣族)に遭遇。一旦は保護され宿や食事の提供を受けるもトラブルが発生し、54名が殺害されました。理由は「言葉が通じない・文化の違い」から生まれた誤解だったと言われています。生き残った12名は現地の有力者「楊さん」の助けを借りながら逃げ、台湾政府に保護された後、無事に琉球に戻りました。

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この事件、多くの人が虐殺されてしまった悲しく恐ろしい出来事ですが、政治的に多いに利用されます。この事件をきっかけに日本国内では「征台論」が噴出。賛成派・反対派で議会が2分される大激論が交わされます。

 

明治政府は清朝に対して「お前んとこの領土やろ!うちんとこの人間がひどい目におぉてん!謝罪しろ!責任とれ!」と詰め寄り、猛抗議したのです。当時の琉球王国はまだ日本ではなかったような。。。

 

一方、清朝「毛昶熙(MAO, Changxi)」が日本(柳原公使)に爆弾発言をします。「そんなこと言われても台湾は『化外の地(国家統治が及ばない野蛮な土地)』やし」と。(「明治時期 香港的日本人」より)責任を取りたくない清朝側は「うち、知らん」と言ってしまいます。

 

この発言、日本、香港と台湾、中国大陸のそれぞれのサイトによって表現が微妙に違っています。

 

日本語のサイトは「化外の民(国家統治が及ばない野蛮な人たち)」(もしくは化外の地)となっており、また他の国のサイトでもこれは変わりません。

 

香港や台湾の一部サイトでは続きがあります。

「生番係我化外之民、問罪與否,聽憑貴國辦理。(そんなこと言われてもあんな野蛮人はうちらの国家統治が及ばない野蛮な人らやし、罪に問うかどうかはそちらに任せるわ。)」と。

「生番係我化外之民」の文章で「係(です)」というのは広東語の表現なので「出典が曖昧やなー(正式な文献なら普通語(北京語)で書かれているはず)」と思ったのですが、台湾でも採用しているサイトがありました。(http://vr.ktnp.gov.tw/ktnpeevr/ohcw/04listc.html)個人的にはちょっと怪しいかなーと思ってます。

 

中国大陸のサイトでは「杀人的生番“置之化外”,并未对其进行治理(殺人をした野蛮人は「化外に置かれたもの」だからまだ統治ができていない)」となっています。

いずれにせよ、清朝がこの事件に関わらないという発言をしたため、日本は一気に台湾出兵へと向かっていきます。

 

※余談ですが、「宮古島島民遭難事件」が起こった140年後の2011年、台湾でこの事件に関するシンポジウムが行われ、加害者の排灣族の代表者、被害者の宮古島の代表者、そして生き残りを助けた現地人の「楊さん」の子孫も出席し、歴史の傷を乗り越えようと和解したそうです。(1871年八瑤湾琉球人事件140年の歴史と復元・国際シンポジウムより(https://web.alcd.tw/uploads/2017/12/02/7b0a624a74783524ec502fd331323bfd.pdf

 

 

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