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日本の征台論、香港でわかる「欧米諸国」の色めき

領事館資料をまとめた「明治時期 香港的日本人」によると1874年は春日丸(http://kaori-neko.hatenablog.com/entry/2019/02/18/220831)をはじめ、色々な事が起こっていたようです。

 

当時の副領事である安藤さんの報告書(7月2日)には当時の欧米諸国の反応が描かれています。

「香港と広東省にいる西洋人は『日本の出兵が正しい事かどうかについてはひとまず置いといて、もし台湾が日本に属することになったら!って考えたら、物(台湾の資源とか?)の輸出ができるようになるから、えぇ事やって思ってる。』と。こう言われるのは(日本にとって)めでたいことやと思います。」

 

当時の日本は武器だけでなく、すべての知識を西洋から学んでいる状況です。日本の台湾出兵を西洋諸国が快く思っていなければ、どんなにもっともらしい理由があっても、赤子の手をひねるがごとく潰されてしまう状況でした。そんな中で、西洋人が日本の出兵をそう悪く思っていないのはかなりの朗報だったと思います。

 

この台湾出兵にはフランス系アメリカ人「リチャード・ルジャンドル」が日本政府をものすごく指示しました。もちろん理由があります。

 

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リチャード・ルジャンドル

 

ルジャンドルがアモイのアメリカ領事だった1867年、アメリカの船「ロバート号」た嵐で遭難し台湾へ流れ着きます。そこで1名の中国人乗組員を除いて、すべての乗組員が原住民に殺害されてしまいます。(どこかで聞いた話ですね)

 

アメリカ(ルジャンドル)は清朝と交渉しますが、遅々として進みません。すったもんだの末、最終的に清朝は「自分で台湾行ってくれる?そこに卓杞篤(Tauketok)っていうトップがいるからそいつと話し合ってくれるかな」とアメリカに台湾へ乗り込む許可を与えます。更に色々あった末、台湾の原住民のトップ卓杞篤(Tauketok)に「遭難した欧米人の安全は確保しろよ」と条約を結びました。

 

そういった背景があり、ルジャンドルは日本政府を指示し、日本へ台湾の地図や写真だけでなく「台湾は2,000くらいの兵があったら十分抑えられるで」と細かい情報を流しました。当時、「征台論」を押していた外務大臣の副島種臣さんはもうめちゃくちゃ喜んで1872年11月にルジャンドルさんを顧問として迎え入れます。その後日本は台湾出兵を決定、それを受け、各国は猛反対。特にイギリスとアメリカの公使は「ルジャンドルを雇用したこと」に猛抗議をしたそうです。

 

この本では分かりやすい反対理由は書かれていません(もしくは私が読み取れなかった)が、ルジャンドルは船艦のリース、兵器の購入など積極的に行ったり、更に彼以外にも2名のアメリカ軍人もいたなど、出兵準備に深く入り込んでいたことが原因のようです。日本の台湾出兵にアメリカが関わる事で起きる影響を心配していたのではないでしょうか。

 

今回はこの辺で。

 

 

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