香港、小さな場所だと思いきや。

香港の過去や現在を、斜め上の視点で観察。

明治9年、外資系企業の苦戦、中国系の台頭。

明治9年(1876年)9月23日頃の安藤副領事の報告に、当時の香港の経済状況が描かれています。

 

香港は明治7年(1874年)からずっと景気が思わしくなく、外資系企業は大きな打撃を受け、会社を清算するところも少なくありませんでした。外資系企業が立ち退き、空き家となった洋館には中国人が駐留する外国の汽船会社が入りました。外資系銀行などの大会社だけでなく、ありとあらゆる業種の法人が中国人に押されていったようです。この時、押されていった欧米人の多くは東京やサイゴン(ベトナム)へと移動したとあります。

 

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ちょっと話が逸れますが、当時の町の中心には「香港人」と呼べる人は少なく、中国から流れてきた中国人たちが多くひしめき合い、働き、グループを作り、社会を作り上げていました。なので領事館の記録では、その背景を踏まえて「香港人」ではなく「中国人」と記載されているのだろうと思います。

 

さて、この不景気は以前ご紹介した日本から出店した店舗としては香港最古(?)と思われる「駿浦屋」も影響を受けます。(※1)

 

そもそもで中国人と外国人の生活様式が異なるため、取扱商品に違いもあれば売値にも違いが出てきます。どうしても外資系の扱う商品は中国系が取り扱うより価格が高くなる傾向があり、不景気の影響は中国系より外資系が大きく受けていたようです。そんな中でも「駿浦屋」は日本の商品を取り扱っていたので、価格面でぼろ負け。現代の我々でも容易に想像がつきますね。。しかし100年以上も前に香港で日本の商品が売られていたとは感慨深い。

 

中国系にガンガンに押されながらも「駿浦屋」は日本本社のおかげでなんとか持ちこたえていたようです。

 

ところで当時の香港にいる外国人達は中国人の繁栄を苦々しく思っていたようです。経済的に押されていただけでなく、ゴールドラッシュで自分たちが送りまくった中国人「苦力(クーリー)」がその土地で脅威となり、移民数制限や排斥論が飛び交っていたそうで、そんな背景も外国人の心理に影響していました。

 

さて「駿浦屋」がどうなるかはまたの機会にご紹介します。

 

※1 : 「駿浦屋」についてはこちら: http://kaori-neko.hatenablog.com/entry/2019/02/16/163807

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