香港、小さな場所だと思いきや。

香港の過去や現在を、斜め上の視点で観察。

パリ万博メンバー、大工から百姓まで。香港に立ち寄る。

明治11年(1878年)5月20日~11月10日に開催されるパリ万国博覧会に参加する日本メンバーが、パリに行く途中に香港に立ち寄った記録があります。

 

明治11年2月18日に世界博事務局長の松方大蔵大臣率いるメンバーが香港に来ました。総人数は書かれていませんが、日本館の大工、瓦造り職人や百姓まで相当の人数が一度に香港へ上陸。日本領事館はホテルのアレンジに苦労したようです。

 

記録によると、一行を「法蘭西酒店(France Hotel)」へ宿泊させようとするも人数が多すぎ、「香港大酒店(Hong Kong Hotel)」「東方酒店(Oriental Hotel)」やその他のホテルへと振り分けました。

 

「香港大酒店(Hong Kong Hotel)」は現在でも香港最も歴史あるラグジュアリーホテルとして君臨するペニンシュラホテルと同じ会社の管理でした。ちなみに場所は現在のLandmark(ランドマーク)の斜め前にある「中建大廈(Central Building)」という一等地にあり、1952年に閉店しています。

 

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1900年ごろの香港大酒店(Hong Kong Hotel)

 

正式の記録ではないらしいですが、何年か経った後に実習書記官が書いたと思われる、当時の様子が書かれた文章が残っています。かいつまんでご紹介します。

 

松方大蔵大臣(以下、松方氏)が香港に来た時は、香港の総督はヘネシー氏だった。ヘネシー総督はとりわけ日本が好きだったため、松方氏の歓待は相当なものだった。松方氏が香港に到着したのは17時頃、鮫島大使と一緒にやってきた。その時、安藤領事は接待の食事中で、ちょうどスープを飲み終わったところだった。松方氏一同が到着したのを聞いて席をたった。

 

一方、松方氏らはヘネシー総督がアレンジした小舟に乗って岸に上がり、これまたヘネシー総督がアレンジした駕籠(かご)に乗り香港総督府へ向かった。

 

安藤領事は香港総督府から政府専用船乗り場へ急いだ。途中、ヨーロッパ、インド、中国の3カ国の人たちが列を作っていた。船乗り場に着くと総督の兵と音楽隊が並んでいたが、松方氏らがやってくると演奏が止まり、砲台から礼砲が鳴らされた。

 

 

パリ万博の帰りの12月7日にも香港に立ち寄っており、その際にはヘネシー総督と一緒に広東省へも行っています。中国大陸のレストランに立ち寄った際に「中国は不衛生だと思っていたけど、ここはとても衛生的で驚いた」と記録があります。140年以上経った今も変わらないですね。

 

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