香港、小さな場所だと思いきや。

香港の過去や現在を、斜め上の視点で観察。

三井物産の香港会社がオープン!事務所は誰もが知るあの場所!

新しい日本の貿易銀貨を広く流通させるために政府に協力することになった三井物産。こちらも着々と準備が進み、明治11年(1878年)8月17日に香港会社が正式開業しました。

 

開業場所は「畢打街7號(7 Pedder Street)」、Google Mapで調べるとセントラルにある高級ショップばかり入ったモール「LandMark(ランドマーク)」でした。あそこは今も昔も一頭地。いい場所に出たんですね。

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ランドマーク外見



実は当時、開業したのは三井物産だけでなく、「広業商会」という会社も同じ年の11月に香港会社をオープンしています。私たちのほとんどが「広業商会」という会社名すら知りませんが、この会社は長崎県の笠野雄吉さんが経営する貿易会社で主な取扱商品は北海道の海産物だったそうです。政府の意向により経営されていた会社だったらしく、当時は三井物産を凌ぐほどの大きな規模だったようです。ただ1890年には政府の意向により閉鎖となりました。

 

「広業商会」は残念ながらどこに事務所を構えたのかは記されていません。

 

 

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【香港:Mount Davis Path】日本軍の幽霊が出る心霊スポット

香港には日本軍の幽霊が出るというスポットがいくつかあります。

その中でも有名な場所に、香港島の西にある「Mount Davis Path(マウント・デイビス・パス)」があります。ここは第二次世界大戦時代の遺跡「砲台跡」が何箇所にも残っています。山は標高269mほどの低い山ですが、登って行く道すがらに幾つか砲台跡があり、頂上には砲台跡だけでなく、爆弾を保管していたと思われる建物、キャンプができる空き地などがあります。

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Mount Davis Path-爆弾格納庫

今は緑が豊かで海が望め、静かでキャンプも楽しめる場所ですが、ここは第二次世界大戦争時代の1941年12月、日本軍が攻めてきた時にイギリス軍との激しい戦いが行われ両軍共多くの死者を出し、また1945年に日本が負けたとわかった時に日本軍が集団自殺したと言われています。

 

幽霊の目撃話の有名な話をご紹介します。

この戦場跡地は、サバイバルゲームの場所として人気スポット。

ある日、サバイバルゲームを楽しむAさんが、砲台跡に隠れていました。時間は夜、暗視スコープであたりを見回していると、突然大勢の人影が見え、驚いて肉眼で確認すると何も見えません。何か見間違いかと思いましたが、あんな大勢の人がいたら、見えなくても気付くだろうと不思議に思ったAさんがもう一度暗視スコープで見ると、その人たちは第二次世界大戦時代の日本軍の軍服姿を着ていました。

 

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Mount Davis Path-爆弾を砲台まで運ぶ道(?)

また別の日、サバイバルゲームを楽しむBさんは空気銃で打っていました。敵一人が近くにいると感じたBさん、その方向に向かって打ちまくります。ただどうもただならぬ雰囲気を感じよく見るとその影はぼやけており、空気銃の弾がその体を通り抜けていきました。「幽霊だ!」と気づいた時はすでに遅し、その幽霊は憤り、Bさんを追いかけてきました。Bさんは慌てて山を駆けおりますが後ろから追いかけてくる気配を感じます。

 

「どうしよう。やばい、やばい!」

Bさんがバンカー(防御陣地)に来た時、突然耳元で「こっちにおいで、助けてあげる」と声がして声がした方を振り返ると、打ち捨てられた神様の像が数十体ありました。すぐその神様の像の後ろへ身を隠すと、追いかけてきた気配が消えていきました。

 

Bさんはすぐ仲間たちへ電話し、すぐに下山。仲間に話をすると、他の2名もBさんと同様の「敵」を目撃しており、またメンバーの中には「整列している日本軍」を見たと言いました。

 

こんな話が言い伝えられる「Mount Davis Path(マウント・デイビス・パス)」。まだ異国の地に留まっている日本軍の魂には日本へ帰ってもらいたいと、切ない気持ちになります。

 

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日本の銀貨を法定通貨に。ライバルはアメリカ!?

香港政府と香港の有力銀行の反応が思ったより良く、大喜びの日本組ですが、アメリカも自国の銀貨を香港で法定通貨として認めさせたいと動いている件にかなりピリピリとしていました。

 

三井物産の執行さんが調べていくうちに、香港のヘネシー総督はアメリカ銀貨を香港で流通させるのにかなり消極的だとわかってきました。アメリカは北京にいるアメリカ公使を通じて再三再四プッシュを入れてたようですが、アメリカ・フランス及びモスクワの銀貨について同時に処理するのは難しく、その他にも色々問題があり、あまり触れたくなかったようです。(アメリカ以外にフランスやモスクワからもオファーが来ていたのでしょうか?)そこで当時は特にどこにも特に組していなかった日本の形勢が自然と良くなってきたと思われます。

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Sir John Pope Hennessy

 

そこで益々、日本は動き出します。

 

2月9日の寺田外務大臣から安藤領事宛に連絡が来ました。「我が国は正式に香港政府へ日本の貿易銀貨を香港で法定通貨として認めてもらうぞ!」と。またこの事はイギリスにいた上野公使にも伝えられました。

 

さて安藤領事は、とうとうヘネシー総督に正式に申し入れをします。ヘネシー総督の反応は非公式で会った時と同様、かなり好意的なもので「正式に申し入れしてくれてほんまに嬉しいわ。もちろん協力するで!」と言ってもらったそうです。

 

ヘネシー総督は、内部で利害関係などをさらに調べ上げ、イギリスへ報告すると約束、またこの時にはすでに上野公使もイギリス政府へ正式に申し入れをしていました。香港政府、香港の3銀行も積極的な態度を見せていたので、あとはイギリス政府の結果待ちとなりました。

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日本の銀貨を法定通貨に。香港政府と3大銀行へ乗り込み!

お金も香港に送ってこられ、三井物産の設立も着々と準備が進んでいましたが、あとは使うだけ!と言う訳には行かなかったみたいです。当時、明治政府は「小額銀貨とは言うても、広範囲で流通させたいから、香港政府に『法定通貨』として認めさせたい!」と考えていました。

 

そこでイギリス人ピットマン(Pitman)さんが早速、当時の香港総督ヘネシーさん(Sir John Pope Hennessy)(※1)に非公式で会い、日本の新銀貨を法定通貨にしたいと伝えます。その後、すぐに安藤領事もピットマンと一緒にヘネシーさんの元を訪れ、安藤領事は、新通貨の特徴などを説明、且つ「日本国としてはまだ正式に『法定通貨にしてこい!』って言うてないんですけど、まずはその前に香港政府のご意見を伺いたいんですわ」と伝えました。

 

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Sir John Pope Hennessy

 

ヘネシーさんは「せやなぁ。個人的には全く問題ないと思てるねんけど、なんせ重大な事やから順序立てて処理せんと。まずはイギリス政府が命令が必要やな。もし日本政府が正式に交渉を始めるなら、できる限り手伝うで」と答え、さらに続けて

 

「その後やな、こういう金融関係の問題は、行政上『銀行家』が一番権力握っとる。せやから、各銀行にちゃんと説明して承認してもらわなあかんで。」とアドバイスをもらいます。

 

乗り込む銀行は3つ。

・東洋銀行

香港初の銀行で、且つ香港で通貨発行を初めて行った当時は絶対的権力を持った銀行でした。(設立から39年後の1884年には倒産しますが。)日本国との関係が深かったため特に問題がないだろうと考えられました。

 

・渣打銀行

スタンダードチャータード銀行。1862年から通貨を発行。(現在も発行中)

領事館とピットマンは、表立った反対意見は出されないと判断。

 

・匯豐銀行

HSBC銀行、1865年から通貨を発行。(現在も発行中)

一番の懸念はこの銀行。絶対反対するだろうと考え、真っ先にここをあたろうと決まりました。

 

そこでピットマンは早速、HSBCのトップであったトーマス・ジャクソン(SIr Thomas Jackson)に会いに行きます。かなりの覚悟で行ったところ「非常に友好的な態度」で反対どころか同意を得ることができました。文面を読んでいるとこれはかなり驚きの結果で、拍子抜けだったみたいです。

 

もちろんこの結果にみんな大喜び!

明治11年(1878年)1月17日、ピットマンはすぐに三井物産の益田社長に連絡、安藤領事も明治政府へ「めっちゃえぇ方向に進みました!」と大喜びで連絡しました。

ただ少し気がかりがあった安藤領事は1月19日に寺島外務大臣にも手紙を出します。

 

「ちょっと考えなあかんのは、今、アメリカ領事館がアメリカ銀貨を香港で流通させたいってもう要求している件ですわ。もし我が国も言い出したら喧嘩になりませんかね。波風が立つことは覚悟しなあきませんな。いずれにせよ、香港政府に正式に申し込むのかどうか早く相談したいですわ。もし正式に決まったら、私の方がすぐに香港政府と交渉しますよって」

 

新通貨流通のため、大きく動き出します。

 

※1:ヘネシー総督は香港で「一番、人種差別がなかった人」と言われています。ヘネシーさんが在任中、中国人も欧米人と同等の自由と平等の地位を得られるよう努力しました。残念ながら香港に住む欧米人からは疎まれていたようですが。。

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貿易通貨を送る準備する日本。受け取り準備をする香港。

日本の貿易銀貨を香港で流通させるために重要な人物ピットマンは、中国貿易で活躍したイギリス人ですが、当時明治政府に雇用されるなど日本と深い関係がある人物です。ピットマンは香港に来て日本の新銀貨流通のため、香港政府や東洋銀行(※1)に働きかけたり、香港・広東省エリアのマーケット規模を調査したりしています。

 

広東の税関局長にあった際には、香港経由で大量のアヘン(阿片)が密輸されているのを知ります。(合法アヘンがあった時期なんですねぇ)当時広東省に流れていたアヘンの2/3もが密輸だったそうです!この点については、その後香港総督に「ちゃんと取り締まって税金取れば儲けまっせ」とアドバイスしています。

 

ピットマンが日本に戻り、財務大臣の大隈重信に報告、その中で「こっちの準備が終わったら、貿易銀貨と貿易用以外の銀貨・銅貨を送って」と言っています。ピットマンはその後すぐに香港へ出向き、香港で銀貨・銅貨の到着を待ちます。

 

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大隈財務大臣は12月28日に香港の安藤領事に連絡をしています。

 

「渋沢栄一(※2)と益田孝(※3)が日本の銅貨を送る準備してるで。ほんまはイギリス帆船で1厘の旧銅貨5,000元(※4)分送る予定やったけど、横浜に着く時間が遅れてしもて、それで他の外国船でアレンジしたで。ついでに5銭と10銭の銀貨を各5,000元ずつ、合計10,000元分も送るで。ついたらちゃんと確認してから受け取ってな。」

 

さて、その受け取り方法まで詳しく記載されています。

まず派遣されてきた三井物産の職員「執行弘道」(※5)は安藤領事に大蔵省の国債局長である郷純造の手紙を渡します。銀・銅貨が領事館に到着後、安藤領事は郷純造の手紙にある印章を確認、箱と同じであることを確認し受け取ったそうです。

 

ちなみにパッキング状態ですが、5銭と10銭の銀貨はそれぞれ3箱ずつに分けられ、1厘の旧銅貨は草でできた袋に271個に入れられていたそうです。袋に入れられてとは何だか適当な扱いですね。

 

 

※1: 1842年創業した香港初の銀行、および通貨発行銀行(1845年より)。ただし1884年倒産。

※2: 2024年から始まる新1万円札の顔!当時大蔵省に所属。

※3: 三井物産の設立に関わった人物。

※4: 中国語では「元」となっていますが、話の流れから「円」の可能性もあり。

※5: 元外務省職員。外務省時代はアモイ領事館にもいた。明治10年(1877年)12月22日に退職。

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イギリス船で日本人労働者が虐待される?領事館が調査

明治10年(1877年)8月9日、永野由松さんと渡辺角太郎さんが領事館にやってきました。

 

彼らの話によると、イギリス船(帆船)の船員になり横浜から香港へ来ました。ところが船内で虐待がひどく、耐え切れなかった二人は香港に到着後、船長ときちんと話し合いを行い、契約を破棄し香港で船をおりました。しかしそこでもらった賃金は、乗船前に話し合った金額と程遠く、二人は日本へ帰るだけの費用にもなりません。そこで交渉してもらえないかと領事館を訪れたそうです。

 

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領事館は、船や船長の名前を尋ねますが、二人はそれすら分からないと言い、これでは交渉どころではないありません。そこで領事館は港事務所へ出かけ該当するイギリス船を探すことにしました。

 

その時に港にあった船は5、6隻のみで、全て牛庄(遼寧省)から来ており、探している船はなさそうでした。それに加え、永野さんと渡辺さんの両名からは有益な情報も得られず、領事館が交渉をしてあげたくてもどうしようもありません。結局は日本へ帰る費用を領事館が負担し、二人を帰国させました。

 

安藤領事の報告にはこうあります。

 

「永野さんと渡辺さんが虐待を受けたと聞きましたけど、何の証拠もありません。賃金が契約よりはるかに安かった件については途中で契約破棄してるわけですから、予定より安ぅなってしまう可能性かてあります。

 

もちろん船長が無罪とは言えません。ただし二人が乗船した時は契約書がなく、パスポートすら持たずに乗船してますやん。困ったことが起きたから、領事館に駆け込んで来ましたけど、結果的には何もできひんかったですわ。」

 

永野さんと渡辺さん二人はトラブルに巻き込まれたとはいえ、無事に帰れただけ運が良かったのかもしれませんね。

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江戸時代後期、香港にいた日本人

かなり話がずれてしまいますが、香港に日本領事館ができる前、江戸後期に香港で過ごしていた日本人4名について記録がありましたので、紹介します。

 

「香港日報」(日本が香港占領時代に発行していた新聞)によると、香港で暮らし始めた日本人は、1846年(江戸末期/弘化2年)、香港がイギリス領になってわずか4年後のことでした。

 

香港に来た日本人4名は、いずれも漁師で嵐でフィリピンに漂着した後、ポルトガル領だったマカオに送られたようです。ちなみにその4名のうち2名は大阪川丸、1名は肥前(佐賀県)口津、1名は尾張名古屋の人でした。

 

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江戸時代の漁師

 

香港に来た後、一人は裁縫で身を立て、一人は洋物雑貨屋の店主として香港で生涯を終えたそうです。

 

その後明治を迎えるにあたり、日本自体が混乱していたため、しばらく詳細がなくなっています。

 

この記録では、どの2名が香港で生涯を終えたかはわかりませんが、今とは違って日本の情報も入らず、日本の食事もままならない香港でたくましく息抜き、生涯を終えた日本人がいました。

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